指揮者になるという志を抱いてロンドンの音大に入った。まずその日にしたことはオーケストラを集めること。とにかく、指揮者の教科書であるベートーヴェンの交響曲全九曲を勉強して指揮しよう。そのためのオケを作るぞ。
音大の練習室のドアをノックして、学生に、こういうオケをやります、日程はこれこれ、出演料は出ないけれど勉強になるよ、と、ひとりずつ勧誘して周った。毎日毎日。OKしてくれるのは、10人にひとりもいたかどうか。
しかし、断わられてもぐっと引き下がる。じゃあ、あなたの友達の電話番号を3つ教えてくれないか? おおらかな時代だった。みんな教えてくれた。夜は家に帰ってその人たちに電話をする。その人たちにも断られる。また電話番号をもらう。その繰り返しで、とうとうロンドンのすべての音大の学生の電話番号がノートにたまった。
でも学生は忙しい。なかなかプレーヤーは集まらない。よーし、なにかオマケを付けようではないか。じゃあねえ、何回か弾きにきてくれたら、コンチェルトのソロを弾かせてあげるよ。それは滅多にできない貴重な体験でしょう? そんな約束をしたので、ずいぶんいろんなコンチェルトを演奏して勉強になったし、コンチェルトばかり5曲も並べたコンサートもした。
オーケストラの人集め、そのほか、会場の予約から、楽譜の手配、椅子並べ、会場の外でチラシを配ってのお客さん集め、チケット切り、会場の後片付け、などなど、すべてひとりでやった。ひとりでやれば、大変でも、他人に責任を押し付けることもないと思っていた。若い時のパワーは計り知れない。
こんなふうにして、ベートーヴェンの交響曲を第一番から順番に演奏して行って、例のコンチェルトも演奏して、他の作曲家の曲も取り上げて、いよいよ交響曲第九番。いわゆる第九。
合唱をどうやって集めるか? ロンドン中の上手い合唱団5つぐらいの名簿を手に入れた。そんなものもよくまあ手に入ったものだが、名簿を見てその人たちひとりずつに電話をかける。一体何百人に電話をかけたのか記憶にないが、とにかく、百人弱が集まった。
もんだいは第九のオケだ。たくさんの上手い人たちに弾いてほしい。どうするか。よし、メシで釣ろう。コンサートの日に、ザ・ジャパニーズ・とんかつ弁当を出すから弾きに来てくれない?
来た来た。さすがのとんかつパワーである。
第九のコンサートの日の朝、早起きをして、何度もご飯を炊いて、一体何枚のとんかつを揚げたことであろうか。それから会場に行って、椅子を並べて……指揮もした。片付けもした。その後1週間寝込んだ。
ロンドンにだって日本の弁当屋ぐらいあっただろう、と何年も後になって誰かに言われた。そんなこと思いもしなかった。そういうもんだいじゃないのだよ。自分で作った弁当を食べて欲しかったんだ。自分で作ったオーケストラを聴いて欲しいのと同じだ。
結局このオーケストラは、2年間に18回のコンサートをした。18回もコンサートをすれば誰かの目に止まるもので、指揮者になれたのはこのオーケストラのおかげである。
あれから四半世紀。今でもとんかつを見るだけであの時のパワーを思い出す。
佐藤俊太郎