「仙台の家族は大丈夫?」
パリのオルリー空港からイギリスに飛ぶときにフランス語の先生からメッセージが来た。少し考えて妻に電話をした。そしてそれを知った。
「知らないうちに飛行機に乗って欲しかったけれど知っちゃったのね。仕方がない。今のところ仙台の実家とは連絡がつかない。とにかくイギリスに飛んでコンサートをしてきてください。」
フライトの間頭は真っ白だった。
空港で荷物が出て来るのを待っていると、ひとりのイギリス人男性が声をかけてきた。
「あなたは日本人ですね。こんな大変なことになって。そうですか、被災地にご家族がいらっしゃる。お見舞い申し上げます。どうか心を強く持ってください。」
ホテルに着いてテレビをつけた。
「このような非現実的な光景をどのように捉えたらいいかわかりません」
BBCのキャスターが喋っていたところでテレビを消した。
スーツケースの鍵を忘れてきたので無理矢理こじ開けたこと。歯ブラシを忘れてきたので買いに行ったこと。それ以外覚えていない。
夜中に寝付けず、ガバッと飛び起きて、
「そうだ、パリでオーケストラ作ろう。」
チャリティーコンサートをしよう。そして寄付金を集めよう。その場で計画書を書いた。こんな場所でコンサートをして、こうやってプレーヤーを集めて、こうやってチケットを売って……計画書を書いてから、倒れるように眠った。
翌日、3月12日、リハーサル前に団員の1人に自分は仙台出身だと話したら、リハーサルが始まる時には全員に伝わっていた。ショックを抱えて指揮台に上がった私に、オーケストラは優しかった。プログラムのテーマは「春」。前半はイギリスの作曲家の春をテーマにした作品を何曲か。メインはベートーヴェンの『田園』だった。第5楽章は「嵐の後の神への感謝の歌」。いつかこの歌が歌える日が来ますように。終わったあと、団員から温かい、嵐のような拍手が来た。
パリに帰ってすぐにコンサートの準備。わずか1ヶ月で、あの計画書通りに準備して、たくさんの方々に助けていただいて、たくさんのチケットを買っていただいて、無事演奏会ができた(その時の画像はこの文章のトップにあります)。アンコールの『G線上のアリア』が終わった時、満員の聴衆が立ち上がって拍手をしてくれた。
あの時も夫婦で作ったコンサートだった。本当のことを言うと、私よりも妻の方がはるかに偉かった。たくさんのことをしてくれた。2歳の娘がいたのに、どこにそんな時間があったのだろうか? ベター・ハーフって、今じゃあんまり聞かない言葉だが、言い得て妙とはこのこと。
あの時、日本にいなかった、いられなかった、私の思い出を書きました。
佐藤俊太郎