10月15日にEAV第2回公演が行われる三鷹市芸術文化センターに打ち合わせに行ってきました。大変に音響の良い素晴らしいホールです。ホールの中もロビーも綺麗で清々しい空気が漂います。
芸術と文化の三鷹市なのですが、皆さん、この芸術文化センターの斜め向かいに何があるかご存知でしょうか?
森鴎外と太宰治のお墓(があるお寺)です。
鴎外のお墓は東京の東のほうにあったのですが、とある事情で、そしてとある縁で、昭和2年に三鷹の禅林寺にお墓が移されました。墓石に、森鴎外ではなく、本名の森林太郎と刻まれているのは本人の遺志だそうです。
そんな質素な佇まいの鴎外のお墓を見にきたのが禅林寺の近所に住んでいた太宰治でした。
現在、太宰の住んでいた家は、正確な場所がわからないようにしてあるのですが(閑静な住宅地にファンが押し寄せてしまうので)、太宰が仕事場にしていた場所や、通っていた銭湯の場所などはわかっていますし、太宰が知人に出した自宅までの手書きの地図なども残されていますので、大体は察しがつきます。
また、太宰はご承知のように玉川上水で入水するのですが、その場所は自宅からすぐ近く。こちらも詳しい場所はわからないようにしてありますが、なんとなくわかります。三鷹駅から歩いてすぐのところです。今はほんの小川ですが、当時は大変水量の多い急流だったそうです。
三鷹駅から禅林寺までは歩いて10分ちょっと。太宰は散歩のつもりで禅林寺を訪れたのでしょうか。
「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、密かに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した」(『花吹雪』)
太宰の死後、夫人が夫の気持ちを酌んで、鴎外の墓の斜め前に太宰の墓を建てました。檀家の方々から猛反発を喰らいながらも断固として引き下がらなかったとのことです。
太宰の遺体が発見されたのは昭和24年6月19日。太宰39歳の誕生日。
この命日、有名な『桜桃忌』には、禅林寺にたくさんの太宰ファンがさくらんぼを持って訪れます。