その小さな店は、蕎麦っ食いの間で知らぬものの無い名店である。生活感あふれる街の中にひっそりとたたずみ、独特の光を放っている。自家製粉、十割の手打ち。折々の珍味と通好みの酒。敷居が高いかと言えばそれは高いが、子供連れが入って来ても丁寧に上手くあしらってくれる。その子連れも周りの客も心地よく時間を過ごせる。
その日もその店で飲んでいた。さっきからかけそばを食いながら、男が女将に何か言っている。
「うまいねえ、この蕎麦は。あのさ、これをうちのに食わしてやりてえなあ。今体こわして入院してるんだ。持ち帰りできねぇかい?」
少々お待ちを、と女将は厨房に入る。入れ替わりに若い職人が顔を出した。
「うちの蕎麦は十割のつなぎなしでして、時間が経つと風味が飛んでしまいます。ですので、店内でのお召し上がりのみとさせていただいております。」
「うーん、そうかい、残念だなあ。」
職人は厨房に戻り、入れ替わりに今度は店主が出て来た。
「もりでもよろしければお作りいたします。」
「そうかい。ありがてぇなあ。」
しばしあって、簡易の箱に入った蕎麦が出てきた。
「はい、こちら。どうぞおはやめに。奥様どうぞお大事になさってくださいませ。」
「すまねぇね。ありがとう。」
厨房に通る声でそう言うが早いか、男は出て行った。