モーツァルトのレクイエム

モーツァルトは5歳から作曲を始めて35歳で亡くなるまで、30年間にわたって作曲をしてきましたが、最後に書いたのはレクイエムです。モーツァルトはそれまでに一度もレクイエムを書いていません。

モーツァルト最後の年、ある日黒い服を着た男がモーツァルトの家にやってきたのは有名な話です。

「レクイエムを書いてください、お金は今半分、完成したら残りの半分を差し上げます。依頼主の名前は訊かないように。」

当時、人気が落ち目になっていたモーツァルトにとってはかなり高額の作曲料だったようです。

モーツァルトはもともと教会音楽を書くのが好きで、そして得意でした。故郷ザルツブルクではたくさんのミサ曲を書いています。しかしウィーンに移ってきてからは、教会音楽を書く機会に恵まれませんでした。ザルツブルク時代から7年経って、自分の実力はとても充実していると良くわかっていたはずです。初めてのレクイエムの作曲に俄然やる気になったことでしょう。

その頃のモーツァルトは、奥さんが病気がちで治療費がかさみ、自分もあまり丈夫でないのにもかかわらず、たくさんの作曲を同時にしている状態でした。プラハのために『皇帝ティトゥスの慈悲』を、ウィーンでは『魔笛』の作曲をしていました。『クラリネット協奏曲』の依頼も入ってきました。とにかく書いて書いて書きまくっていました。そこにレクイエムが割り込んできた。なかなか時間がない。

「レクイエムの作曲は捗っていますか?」

あの黒い服の男が再びやってきます。なるべく早く完成させるようにと言って男は去っていきます。

そうこうしているうちにモーツァルトは過労のために体を壊していきます。それでも彼は作曲を続けました。あの黒い服の男は、きっとあの世から来たに違いない。きっと自分は今、自分自身のためにレクイエムを書いているんだ。

モーツァルトにレクイエムを依頼したのは、ウィーン近郊に住む貴族、ヴァルゼック伯爵という人物だったということが分かっています。この男は、有名な作曲家に秘密で作曲を依頼し、出来上がった作品を自分の手で書き写し、自分の作品として演奏させて自慢する、という奇癖を持っていた人物で、花の盛りに世を去った自分の妻のために、「自分の作曲による」レクイエムを演奏することを思いついたのでした。

よりによってモーツァルトに作曲を依頼してきたこの男がいなかったら、モーツァルトの寿命はもっと長く、もっとたくさんの素晴らしい音楽が世界にもたらされたのかもしれないのに!!

死の前日まで、モーツァルトはレクイエムを書き続けたそうです。そして、未完の部分の作曲方法を弟子に伝えながら、楽譜は白い部分がたくさん残されたまま、モーツァルトは死んでいきました。

それにしてもモーツァルトの最後の作品がレクイエムだったというのは話ができすぎています。まるで天が我々人間を愚弄したかのようです。この天才をこの世に遣わし、そして奪い去ったかのようです。

モーツァルトの訃報に際しハイドンは言いました。

「今後100年間は、こんな天才は現れないだろう」。

200年以上たった今、まだ現れていません。

佐藤俊太郎